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自然社会と富社会


Natural Society and Wealthy Society


富と権力


Wealth and Power
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                             第四節 アメリカ文明ととうもろこし

                                     第一項 主食のとうもろこし 

 メソアメリカ領域は、「高山を除いて、氷に覆われることがなく、人間の活動に適し」ていたことから、メソアメリカ古代文明は「トウモロコシ農耕を基盤として生れた」(高山智博「トウモロコシ農耕の起源」[梅原猛・安田喜憲編『農耕と文明』、講座『文明と環境』第3巻、朝倉書店、1995年、204−5頁])のである。その結果、「キチェ人の神話を収録した『ポポル・ウフ』によると、人類はトウモロコシから造られたとされる」(井上幸孝編『メソアメリカを知るための58章』明石書店、2014年、159頁)ほどであった。「古代・現代マヤ人の主食は、トウモロコシである。一晩食用の石灰を入れた水に漬けたトウモロコシの粒を、メタテ(製粉用の石盤)とマノ(製粉用の石棒)を使って挽きつぶし、練り粉の玉を作る。先古典期・古典期の低地マヤ人は、トウモロコシ飲料のポソレやアトレ、蒸し団子タマルとして食用した。マヤ低地全域トルティーリャ(トウモロコシの練り粉の玉から必要量を取って作る薄く円形のパン)が広まったのは、後古典期になってからであった」(青山和夫『古代マヤ 石器の都市文明』京大学術出版会、平成17年、119頁)

 アメリカ大陸では「旧世界より多くの種類の植物が栽培化され」、「アステカの農民は、数千年にわたって受け継がれてきた植物の知識を持」っていた。アステカの「食生活は野菜と植物主体の食事」であり、「それを狩猟の獲物や魚、七面鳥その他の鳥類、さまざまな昆虫などで補っていた」が、「どの地方でも中心となる作物はトウモロコシであり、トウモロコシが経済の基盤」であった。彼らは「トウモロコシに石灰を加えて煮た後、平らな石の上で長い円筒形の碾(ひ)き石を使ってすりつぶ」した。二番目に重要な穀物はワウトリ(アマランサス)、三番目はカボチャ、ヒョウタン(容器)であった。そのほか、タマネギ、トマト、カモトリ(サツマイモ)、クズイモ、ピーナッツとポップコーンも「食生活の一角を占めていた」。果物としては、マンメア、シロサポテ、クロサポテ、チリモヤ、グアバ、バンレイシ、野菜としてノパルサボテン、オプンチアの実、ピタヤサボテン、リュウゼツランなどがあった。また、「カカオの実は主に高温多湿な熱帯帯地方で採れ」、「一部の地域の主要貢納品であり、一種の貨幣としても使われ」、「カカオの実はテオティワカン時代からずっと、貴重な品物として長距離交易で珍重されてきた」(リチャード・F・タウンゼント、武井摩利訳『アステカ文明』創元社、2004年[Richard.F. Townsend, The Aztecs,Thames and Hudson Ltd.London,2000]、248ー249頁)のである。

 トウモロコシは、「乾燥・貯蔵が容易であり、その余剰生産は、先スペイン期のメソアメリカで都市文明社会を生みだした原動力のひとつであ」り、「メキシコ中央高地のテワカン盆地コシュカトラン岩陰遺跡出土のトウモロコシ遺存体は、前5000年頃のメソアメリカ最古と解析」(青山和夫『古代マヤ 石器の都市文明』京大学術出版会、平成17年、34頁)されている。それでは、その頃のとうもろこしたは、いかなるものだったのであろうか。 「トウモロコシが後に主食の座を占めるようになったのは、一度収穫すれば、それを長期に保存できる穀物だからである。したがって保存したトウモロコシがある間は、別の活動に従事することも可能だし、厳しい自然に耐えることもできた」(高山智博「トウモロコシ農耕の起源」[梅原猛・安田喜憲編『農耕と文明』、講座『文明と環境』第3巻、朝倉書店、1995年、210頁])

  「主食のトウモロコシに加えて、マメ類、カボチャ、トウガラシ、キャッサバなどの根菜、パンの実、カカオ、アボガドやアカテツの実といった樹木作物などが食された」、古典期には「都市の人口増大や農地の拡張によって森林が伐採され、動物の生態が破壊されたため」、先古典期中期ほど動物の肉は食わされなくなった(青山和夫『古代マヤ 石器の都市文明』京大学術出版会、平成17年、119頁)。

                                     第二項 最初のとうもろこし 

 紀元前5000−同4000年、メキシコのプエブラ州ワカン谷の洞窟で、長さ約2−3cmの小さな穂軸(野生種)が出土する(戸沢英男「トウモロコシの起源、伝播、生産」[貝沼圭二・中久喜輝夫・大坪研一『トウモロコシの科学』朝倉書店、2009年、1頁])。当時の野生とうもろこしは「2−3センチの短い穂軸に20粒ほどの種子」が付いている」(井上幸孝編『メソアメリカを知るための58章』明石書店、2014年、158頁)だけだったのである。当初の穂軸の長さは、「わずか1.9−2.5センチメートルときわめて小さく、穀粒は平均55粒にすぎない」(青山和夫『古代マヤ 石器の都市文明』京大学術出版会、平成17年、34頁)ともいう。いずれにしても、初期のとうもろこしは現在の規模・内容には比べると、非常に小規模なものだった。 

 ブライアンは、メソアメリカ文明の「対等性」を強調するために、とうもろこし栽培時期は「紀元前9千年から8千年頃、シリアやメソポタミアで小麦が、そして紀元前7千年頃インダス河に沿った盆地で大麦が栽培されたのと時期的に相応する」(ブライアン・ハムネット、土井亨訳『メキシコの歴史』創土社、2008年、35頁)とするが、実際は遅れている。メソポタミアでは、「農耕と牧畜は、前8500年ー前6000年にかけて、6000年以上を要したメソアメリカの半分以下の時間で主要な生業にな」り、「メソポタミアで最初に栽培された小麦は、野生であろうと栽培種であろうと、ほぼ同様な収穫量をもたらした」(青山和夫『古代メソアメリカ文明』講談社、2007年、33頁)のであった。

 紀元前6000年頃、「野生の矮小種が改良」され始め、「トウモロコシ、マメ、カボチャなどが、農作物として開発」(青木晴夫『マヤ文明の謎』講談社、1984年、46頁)された。前3000年頃から「栽培植物として定着」し、前1500年頃には「現在の・・大きさと形状のトウモロコシになった」のである。そして、「トウモロコシ農耕の開始」は「オルメカ、サポテカ、マヤといった本格的な文明の開花」に「重要な役割を担った」(井上幸孝編『メソアメリカを知るための58章』明石書店、2014年、158頁)のである。だが、とうもろこし生産力は、まだ麦、米の生産力には劣っていたようだ。 とうもろこしは、中央アメリカ、ペルーなどで小型から大型に改良されたが、「しばらくは、その収量性は低いままで、食料の中に占める比重は1割にも満たない時期が続いた」(戸沢英男「トウモロコシの起源、伝播、生産」[貝沼圭二・中久喜輝夫・大坪研一『トウモロコシの科学』朝倉書店、2009年、5頁])のである。

 後200年頃、アメリカ合衆国にトウモロコシが入ってくる。当時、ここでは、四種の「起源作物」(前2500−前1500年、かぼちゃ、ひまわり、サンプウィード、アカザが栽培化)、三種の栽培作物(タデ、クサヨシの一種、ミナトムギクサ)を持っていて、この7種作物の蛋白質含有量は17−32%だから、高栄養価作物であった。だが、これらでは不十分であり、「野生の哺乳類や水鳥、魚介類、木の実などを主たる食料源」とした(ジャレド・ダイアモンド゙著、倉骨彰訳『銃・病原菌・鉄――1万3000年にわたる人類史の謎(上)』草思社、2000年、223頁)。ようやく、将来の主食作物たるとうもろこしが入ってきたのである。

 これは、数世紀後に「主要作物として育成」され、900年頃、「北米の短い夏季に適した新種のトウモロコシ」、1100年頃インゲンマメが伝わる。この結果、「ミシシッピー川とその支流域にかなりの人口密度を誇る首長社会が複数出現」した。つまり、「メキシコ原産の三種類の作物(トウモロコシ、インゲンマメ、カボチャ)を栽培しはじめた結果」、「人口爆発」がおこり、「ミシシッピ文化が誕生し、メキシコ以北で最大規模の町づくりがなされた」のである。しかし、「この地域には大麦や小麦のように有用な野生の穀類が自生していなかった」のである。こうして、ニューギニア、アメリカ合衆国東部では、「この地域の生物相や環境要因」によって栽培可能な「野生種」がなかったために、独自の食料生産システムの展開が制約された(ジャレド・ダイアモンド゙著、倉骨彰訳『銃・病原菌・鉄――1万3000年にわたる人類史の謎(上)』草思社、2000年、224ー230頁)。

                                  第三項 畑作連作の弊害 

 とうもろこしに限らず、畑で穀物を連作すると弊害が生じる。この連作弊害対策として「トウモロコシとインゲン豆を同時に栽培するという方法が一般的」であり、「トウモロコシは草丈が長く、つる草である豆の支柱の役割を果た」し、また「この豆の根に共生する根粒菌は、空気中の窒素を有機窒素に変え、畑に肥料を供給」し、これは現在でも行なわれている。このトウモロコシ、インゲン豆にかぼちゃを加えると、かぼちゃは「地表を覆うように生えるので、トウモロコシや豆と競合しないばかりか、地面を乾燥から防ぐ」のである(井上幸孝編『メソアメリカを知るための58章』明石書店、2014年、158−9頁)。トウモロコシは「輪作体系が望ましいが、連作を極端に嫌う作物ではない」(戸沢英男「トウモロコシの作物的特徴、種類、栽培」[貝沼圭二・中久喜輝夫・大坪研一『トウモロコシの科学』朝倉書店、2009年、17−20頁])ものとなったのである。トウモロコシ・豆・カボチャの相互補完ー「マメ類(アミノ酸のリジンが豊富)は、トウモロコシ(炭水化物に富む)が土壌で消費する窒素を提供し、トウモロコシにからみついて日光を十分に得」て、「カボチャ(蛋白質に富む)の大きな葉は、熱帯・亜熱帯の強い日光を遮断し、土壌成分を保護する」(青山和夫『古代メソアメリカ文明』講談社、2007年、44頁)。

 マヤ人達が行なっていた焼き畑農耕が、土地を急速に疲弊させ、「古い耕地で再び栽培できるように、土壌が自然に回復するには数十年が必要」となり、「農民達は四、五年ごとに、トウモロコシの種を播くための新しい耕作地のために森を焼き払わなければなら」なくなった(クジミシチェフ、深見弾訳『マヤ文字の秘密』大陸書房、昭和53年、33−4頁)。

 トウモロコシを主作物とする焼畑農業だけでは「大都市の人口を養えない」のであり、「古代マヤ人は、多様な生態環境を柔軟に活用して、焼畑農業(毎年耕地を移動)と集約農業(「主に中小河川や湧水を利用した灌漑農業、段々畑、低湿地の底の泥を積みあげた盛土畑や水路を張り巡らした畑」。これで「毎年同じ畑での集約農業が可能になった」。盛土畑は「非常に肥沃で生産性が高く、トウモロコシ、ヒユ科のアマランス、綿、カカオなどが生産された)を緻密に組みあわせてさまざまな作物を生産した」(青山和夫『古代マヤ 石器の都市文明』京大学術出版会、平成17年、108頁、120−1頁)のであった。

                               第四項 メソアメリカ文明ととうもろこし 

 完新世中期(紀元前5000−紀元前2500年、地質年代)の高温期には、トウモロコシ、カボチャ、インゲンマメ、トウガラシ、アマランサス、サポーテなど」、「野生の食用植物の栽培化が始まった」(高山智博「トウモロコシ農耕の起源」[梅原猛・安田喜憲編『農耕と文明』、講座『文明と環境』第3巻、朝倉書店、1995年、209頁])のである。コスカトラン期(紀元前5000年ー紀元前3500年、メソアメリカの考古学年代。コスカトランはメキシコ・テワカン盆地にある洞窟)に、「テワカン盆地ではこの時期にはじめて栽培植物の開始を告げる遺物が出てくる」。当時のトウモロコシの穂軸は2.5cmと「きわめて小さなもの」であり、故に「食料全体の中で栽培植物が占める割合も10%にすぎ」ず、この結果、モスカータカボチャ、サポーテ、インゲンマメなど、「食料の大部分はまだ、野生の動植物に依存」していた(高山智博「トウモロコシ農耕の起源」[梅原猛・安田喜憲編『農耕と文明』、講座『文明と環境』第3巻、朝倉書店、1995年、210頁])。

 完新世晩期(紀元前2500−紀元前1500年)に定住農耕村落が成立した。この時期に、メソアメリカ各地((中米のメキシコからホンジュラス、ニカラグアにかけての地域))に「トウモロコシ、インゲンマメ、カボチャ、それにトウガラシを主体とする定住農耕村落、それに土器や土偶が出現」(高山智博「トウモロコシ農耕の起源」[梅原猛・安田喜憲編『農耕と文明』、講座『文明と環境』第3巻、朝倉書店、1995年、210頁)した。この頃には、トウモロコシも「改良されて収量の高いものにな」り(あくまで以前に比べて)、「いわゆる定住農耕村落が出現」(高山智博「トウモロコシ農耕の起源」[梅原猛・安田喜憲編『農耕と文明』、講座『文明と環境』第3巻、朝倉書店、1995年、210頁])した。「紀元前3千年から2千年までにトウモロコシなどの穀物を栽培し陶器を作る定住者の村が、中央アメリカのいたるところで見受けられた」(ブライアン・ハムネット、土井亨訳『メキシコの歴史』創土社、2008年35頁)のであった。

 こうして、紀元前4000年頃以後「数千年にわたって品種改良が重ねられた結果、穂軸と穀粒が大きくなり、生産性が高まった」のである。メソアメリカでは、「狩猟採集中心の食料獲得経済から、農耕を生業の基盤にした食料生産経済へ移行していく過程は、数千年にわたる長いもの」であり、「古期(前8000−前1800年)には、植物が栽培化されたが、狩猟採集が生業の主流でありつづけ」、「季節ごとに移住するという生活様式に大きな変化はなく、人口は長期間にわたって徐々に増加」し、「メソアメリカでは、農耕を生業の基盤にした定住生活が各地で定着したのは、先古典期前期(前1800−前1000年)以降」、「植物が栽培されはじめてから、6000年以上を要した」(青山和夫『古代メソアメリカ文明』講談社、2007年、43−4頁)のであった。

 先古典期社会(前2000年ー後200年、メソアメリカの考古学年代)には、「農耕以外の食料獲得手段に依存」しつつも「生業基盤が徐々に定住農耕へ向か」いだした(井上幸孝編『メソアメリカを知るための58章』明石書店、2014年、55頁)。

 先古典期中期(紀元前1200年ー前1000年頃)に「メキシコ湾岸南部の湿潤な熱帯低地に・・新たな神を信仰するオルメカ文化(前1200−前400年)が出現」し、「その信仰はメソアメリカ全土に広がり、各地の文化に大きな影響を与え」(高山智博「トウモロコシ農耕の起源」[梅原猛・安田喜憲編『農耕と文明』、講座『文明と環境』第3巻、朝倉書店、1995年、210頁])た。オルメカ文明期に、「メキシコ湾沿いの熱帯低地で繁栄)の経済的基礎は、年二度のトウモロコシの収穫と豊富な動物と魚類をもたらす、極めて肥沃なメキシコ湾岸の河川地域」で、「豊富に食料が手に入る土地柄が、大きな人口を養うことができた」(ブライアン・ハムネット、土井亨訳『メキシコの歴史』創土社、2008年、39頁)。こうして、前1000年前後に、「トウモロコシ農耕を基盤とする定住村落と土器は、・・マヤ低地南部とマヤ高地の各地で開始された」(青山和夫『古代メソアメリカ文明』講談社、2007年88−9頁)のである。

 前700−前400年には、「突然変異によって、大きな穂軸と穀粒を有するトウモロコシが生産されはじめ、生業における農耕の比率が高くなっ」て、「マヤ低地では、生産性の高いトウモロコシ農耕を基盤とする定住生活をもって、文明が開花」(青山和夫『古代マヤ 石器の都市文明』京大学術出版会、平成17年、37頁)した。こうして、今から3000−3500年前頃からとうもろこしは「生産性と食料としての位置づけは増していった」(戸沢英男「トウモロコシの起源、伝播、生産」[貝沼圭二・中久喜輝夫・大坪研一『トウモロコシの科学』朝倉書店、2009年、5頁])のである。
 
 古典期(紀元前後ー900年)には、「中央高原にテオティワカン文明、少し遅れて、ユカタン半島にマヤ文明が出現」し、「古代文明と呼びうるものが誕生」(高山智博「トウモロコシ農耕の起源」[梅原猛・安田喜憲編『農耕と文明』、講座『文明と環境』第3巻、朝倉書店、1995年、211頁])した。古典期(後200−900/1000年)には、「農業がより集約的になり余剰生産が高ま」り、人口が増加し、都市が形成された」(井上幸孝編『メソアメリカを知るための58章』明石書店、2014年、59頁)のである。

 後古典期(900−1521年)には、「古典期文明が崩壊した後、トルテカ王国、アステカ帝国といった軍国的な社会が成立」(高山智博「トウモロコシ農耕の起源」[梅原猛・安田喜憲編『農耕と文明』、講座『文明と環境』第3巻、朝倉書店、1995年、210ー211頁])した。しかし、周知の通り、1521年、アステカ帝国皇帝クアウテモックがスペイン征服者エルナン・コルテスの手に落ち」、メソアメリカ文明はここに終わりを告げた。

 こうして、数千年にわたり、とうもろこしの「品種改良」が続けられた事によって、「穂軸と穀粒が大きくなって生産性が高まり、やがて主食になっていった」のである。「何枚もの苞葉に包まれ、穂軸に数百の穀粒をつけるトウモロコシは、人の手なしには生存できない植物になった」(青山和夫『古代マヤ 石器の都市文明』京大学術出版会、平成17年、34頁)のである。

 さらに、新大陸を侵略したヨーロッパ人がトウモロコシの工業的な新種改良・収量増加を著しく行ない始めた。「赤、青、黄といったトウモロコシの色にそれぞれ異なる神聖性を見出していた先住民の論理が効率重視の白人の論理に取って代られて以来、収量を上げることが至上目的となり、トウモロコシの作付面積だけでなく1エーカーあたりの収量の増加が文明の度合いをはかる尺度と見なされてき」て、南北戦争頃には「最小限の労力で太陽エネルギーを最大源」利用するトウモロコシ産業として結実した(結城正美「トウモロコシと人間」[笹田直人編著『都市のアメリカ文化学』ミネルヴァ書房、2011年、244頁<べティ・フッセル『トウモロコシの話』1992年>])。

 トウモロコシの栽培初期は「栽培は肥沃で土壌水分の多い谷間に限られていた」が、やがて、@森林地帯では焼畑農業、A乾燥地帯では灌漑農法、B傾斜地では階段畑農法、C低地・低湿地では積上農法(チナンパスなど)、D高地では垂直統御・出作農法(高地では牧羊など、やや高地ではバレイショなど、中地ではトウモロコシなど、低地で果物などを栽培)、E「高度の混植技術として三姉妹(トウモロコシ、カボチャ、インゲンの混植)栽培が成立」し、F「これらの方法でも栽培できない狩猟部族などは遠距離交易(物々交換)によって、トウモロコシを得ることができ」て、「各地には地域性を踏まえた特徴的な農耕技術が生まれた」のであった。こうして「アメリカ大陸先住民のほとんどはトウモロコシを利用することができ」、「特に、米国で最初の農耕文化を築き上げたメソアメリカは、文化要素としてのトウモロコシの占める比重が大きいことにより、トウモロコシ文化圏ともいわれる」(戸沢英男「トウモロコシの起源、伝播、生産」[貝沼圭二・中久喜輝夫・大坪研一『トウモロコシの科学』朝倉書店、2009年、5頁])ようになった。以下では、アンデス、アマゾン地方でのとうもろこし栽培を瞥見してみよう。

                                第五項 アンデス文明ととうもろこし 

 1万1千年前に「ペルー、ボリビアの中央アンデス地帯に人類が登場」し、「約1万年前に氷河が後退すると、気候環境は現在に近いものになり、人類は植物採集と小型動物の狩猟を主な生業とするかたわら、やがて植物栽培や、いわゆるドメスティケーション(植物の栽培化、動物の家畜化ー筆者)にも手を染め始め」(関雄二「古代アンデス文明とは何か」[大貫良夫ら編『古代アンデス 神殿から始まる文明』朝日新聞出版、2010年、18−20頁])た。
        
 紀元前5000年、アンデス山脈の「はるか下方の暖かい谷間地帯」にはヒョウタン、インゲンマメなど「植物の栽培が工夫」された。前6千年紀から前5千年紀に農耕、牧畜が開始される。これは、以後「数千年かけて、ゆっくりと社会内部に浸透」(関雄二「古代アンデス文明とは何か」[大貫良夫ら編『古代アンデス 神殿から始まる文明』朝日新聞出版、2010年、18−20頁])した。

、紀元前3000年、「栽培と漁撈を組み合わせた生業を持って、海産物の豊富な海岸地帯に住みつく動きも始まり」、「海岸のあちこちに大きな集落が現れ」た。 「定住生活の進展するところに公共的な祭祀建築が生れ」、「ある期間のあとに作り替えをする」慣習が生れた、「トウモロコシ、ジャガイモ、サツマイモ、カボチャ、トウガラシなど、作物の種類が増え、改良もまた進んだ」のであった。紀元前1500年、「土器と綿織物の技術が取り入れられ、農業が主たる生業として確立すると、神殿建築は大規模になり、神官は宗教だけでなく、政治のリーダーの役割をも担うことになった」(カルメン・ベルナン、大貫良夫監修『インカ帝国』創元社、2001年、1-2頁[Carmen Bernand,Les Incas peuple du Soleol,Gallimard,1988])のである。

 アンデス地方では、トウモロコシは高地ではなく、「比較的温暖な谷間」で栽培され、「儀礼的・象徴的意味」を帯びてていた。神話によれば、「はじめてトウモロコシをこの世にもたらしたのは、インカの妹であり妻でもある初代コヤ、ママ・ワコだとされ」、「ママ・ワコはインカ族の祖が現われたとされる伝説の場所、パカリクタンポの洞窟から、トウモロコシをたずさえてきた」とされている。その伝説にちなんで「トウモロコシは『洞窟の種子』とも呼ばれ」、「この神話は今でもエクアドル南部で語り継がれている」(カルメン・ベルナン、大貫良夫監修『インカ帝国』創元社、2001年、66頁[Carmen Bernand,Les Incas peuple du Soleol,Gallimard,1988])のである。

 前3000年「神殿が建設され始める形成期」が到来する。前1000年に神殿が発達し、BC/AD頃のに灌漑農業が本格化し、後500年頃に王国(モチェ、リマ、ナスカ、レクワイ)が成立し、800年頃に都市が成立する(関雄二「古代アンデス文明とは何か」[大貫良夫ら編『古代アンデス 神殿から始まる文明』朝日新聞出版、2010年、18−20頁])。アンデスの文明形成には「独特のものがあ」り、「神殿があって社会が動く」と言われる。「初めのうちは各集落単位での、ごく小規模の祭祀場の造り替えという慣習が、世代を超えて繰り返されるうちにしだいに規模が大きくなり、人口、食糧生産、技術革新、思想の練磨、儀礼の壮麗化などと相互に関連しあってポジティブ・フィードバックの動態ができあが」り、「神殿更新なら社会発展の動因になり得ると考えられる」(実松克義『アマゾン文明の研究』現代書館、2010年、96−7頁)ているのである。しかし、アンデス文明では、顕著な余剰を持たなかったから、文明として拡張力・発展力が弱く、神殿・・宗教に依存したのではないか。

 こうして、アンデス文明は、「前3000年に始まり紀元前後まで続く長い時間の中で徐々に起こってい」き、「先史アンデスにおいて、国家が出現する前の時代を形成期と呼ぶ(関雄二「古代アンデス文明とは何か」[大貫良夫ら編『古代アンデス 神殿から始まる文明』朝日新聞出版、2010年、106頁])。ここでは、とうもろこしよりも、高地でも栽培できるジャガイモが中心だった。

 アンデスの国土は、「元々農地には適していなかったために、大規模な整地作業が行なわれたが、その規模の大きさと比較して、インディオの使う道具があまりに単純」であった。彼らは、「石ころだらけの土壌、急勾配、困難な灌漑」に対して、「今日でも使われている水路や階段畑を工夫することで、・・数々の障害を克服し」、「乾燥土壌に水を運ぶため、川の流れを変え、岩を穿って水路を造った」のである。インディオの代表的な農具は「タクリャという木製の鋤」であり、「インカの人々は家畜に引かせる無輪犂を知ら」ず、「無輪犂や農耕用の牛が、昔からの技術に完全にとって代わることは、少なくとも極貧の地域では見られなかった」のである。農業は、「基本的に塊茎類(ジャガイモ、オカ)、キノア(アカザ科一年草、種子からデンプンをとる)、トウモロコシ、コカの栽培の上に成り立ってい」て、4000m以上でも育つジャガイモのおかげで、インカ人は高地にすめた。ともろこしよりジャガイモが中心であり、「ジャガイモの原産地であるティティカカ湖一帯では、数百種類の品種が記録され」、「インカの人々は特異な気象条件を利用して」、「氷点下に下がる夜間と熱帯の昼間の気温差を利用して、・・チュー二ョ(乾燥ジャガイモ)に加工」((カルメン・ベルナン、大貫良夫監修『インカ帝国』創元社、2001年、63−66頁[Carmen Bernand,Les Incas peuple du Soleol, Gallimard, 1988])した。16世紀初め、インカ帝国では、「住民の大半がジャガイモを主食にしていた」(山本紀夫「作物と家畜が変えた歴史」327頁[川田順造・大貫良夫編『生態の地域史』山川出版社、2000年])のである。

 スペイン征服者が関心を示した「インカ帝国の徴税表」によると、トウモロコシ7000トン、インゲンマメ4000トン、アマランサスの種子4000トン、木綿マント200万枚、大量のカカオ豆・戦闘服・盾・羽根製の頭飾り・琥珀(ジャレド・ダイアモンド゙著、倉骨彰訳『銃・病原菌・鉄――1万3000年にわたる人類史の謎(下)』草思社、2000年、124頁)である。このトウモロコシ7000トン=7百万kg、1石=150kg=180リットル=米俵2.5俵で換算すると、4万6666石であり、この2倍を生産高とみると、日本の江戸時代の中藩ー大藩規模の生産力となる。インカ帝国の生産力はこの程度だということである。

 168人のスペイン侵略者が8万人のインカ帝国軍をやぶったのは、こうした生産力の差、それに基づく武器と戦術の差によっていたようだ。1532年インカ王アタワルバは「王座をめぐる内戦で兄を破り、首都に戻る」際、「百戦練磨の戦士8万人の軍隊を率い」て、168人侵略者の野営地に到着すると、侵略者の「茶色のロープを纏った男」が「神の言葉が記されている」と称して聖書を贈った。王が「無造作にそれを地面に放り投げた」のをきっかけに、スペイン侵略者「数十人の男」が「矢や槍を跳ね返す無敵の金属製スーツを着」て、「金属製の武器」、銃を帯び、騎馬とともに襲い掛かって来た。彼らは、中庭を囲む建物から走り出て、「皇帝と4千人の護衛を圧服し、蹴散らし、皇帝を捕虜」にした。外で待機していた「アタワルバの7万6千人の戦士は、・・貴族たちが命からがら逃げてくるのを見て、・・右往左往」していると、27人の甲冑姿の敵が現れ、大虐殺を始め、「戦士は全員逃げ出した」のであった。こうして、インカ人は、「大砲と鎧と剣とマスコット銃」に初めて接し、対応できずに、殺されるままとなり、「不安と混乱」に陥ったのである(P.W.シンガー『ロボット兵士の戦争』431−3頁)。


                                         第六項 アマゾン文明ととうもろこし 

 考古学者ドナルド・ラスラップは、「アマゾンこそ文明の発生に最適な環境である」と断言した。彼は、「文明とは大規模な社会が構築された結果成立するもの」であるから、「大規模な食糧生産システムの確立は、文明成立の必須条件である」が、この点ではアマゾンは「巨大な氾濫原を持ち、農業を実施するのに最適な土地環境」であるので、「非常に理想的な条件を備えている」とした。そこで、彼は、「アマゾン本流とネグロ川が合流」する「中央アマゾン地域、マナウスの西側一帯」の「大規模な三角州」で、アマゾン最初の文明が発生したと推定されている(実松克義『アマゾン文明の研究』現代書館、2010年、60頁)。

 さらに、「アマゾン各地で出土した土器」を分析して、紀元前2000年頃、アマゾン中央地域の二大先住民族トゥピ・グアラニ諸族、アラワク族が「最初の文明」を起こし、それが「南米各地に広が」り、アンデス、マヤ文明を生んだとする。ここで、ラスラップのいう文明は、都市文明ではなく、「その対極にある『文明』」だと主張した。彼は、「古代アマゾン人はアマゾンの自然を半人工化すること(「原生林から生活に役立ちそうな木、あるいは植物を住居の周りに移植して小規模な果樹園、菜園を造園」し、「自生の樹木、草木を人工的に栽培して、人間の手を入れて生活に役立つよう改善」)で資源として活用し、環境的に永続できる文明社会を構想した」とした(実松克義『アマゾン文明の研究』現代書館、2010年、61頁)。

 1991年、アメリカ大陸で7000−8000年前のアマゾン最古の土器が発見され、「それまで知られていた南米大陸最古の土器を2000年を上回」った。この最古の土器発見で、「南米大陸における最初の古代文化の発生がアンデス山脈や太平洋岸ではなく、アマゾンであった可能性がきわめて高くなった」(実松克義『アマゾン文明の研究』現代書館、2010年、64頁)のである。

 アマゾンの肥沃土壌は人工土壌テラブレタ(主成分の炭化物以外に、「植物の残滓、動物の糞、魚の骨、土器粉、微生物」などが含まれる)と言われる。「テラブレタが含む大量の土器粉は、この土壌が人工のものであることの決定的な証明」である。正確にはテラブレタには、テラブレタ(古代の居住跡地、近郊)とテラムラータ(古代の農耕跡地)の二種があり、ともに通常の土地の8倍の生産性をもつ(実松克義『アマゾン文明の研究』現代書館、2010年、67−8頁)。「この人工土壌の存在はアマゾンの古代において、高度な土壌改善テクノロジー、農業テクノロジー、エコ・テクノロジーの知識を持つ社会が存在したことを証明」(実松克義『アマゾン文明の研究』現代書館、2010年、68頁)するとした。

 ボリビアのモホス文明は、洪水から耕地を守るために「耕地を高め」、粘土質からまもるために「深い溝を掘り、そこから下方の土を取り出し、表層の土壌に載せ」、毎年これをおこなった(実松克義『アマゾン文明の研究』現代書館、2010年、128−9頁)。さらに、「豊かな栄養分を含む」タロペを「水を張った溝」に大量に育て、「作物の肥料に使った」のである(実松克義『アマゾン文明の研究』現代書館、2010年、129頁)。

 モホス文明は、「よく水利システムの文明であると言われ」、モホス文明の水利システムは、「巨大な氾濫原の存在というホモス大平原の特異な自然を巧みに利用して構築され」、「それは人造湖、運河、水路、貯水池、テラプレン、農業用水路等からなる水利構造物の一大複合体」であった(実松克義『アマゾン文明の研究』現代書館、2010年、135頁)。紀元前2000年頃までには「人びとはモホス大平原に移り住み、最初の居住地を形成」し、「3000年以上にわたって続いた」のであった。しかし、西暦1200年頃には衰退を始め、1300年頃には崩壊した(実松克義『アマゾン文明の研究』現代書館、2010年、146−7頁)。ここには数十万人の人口(実松克義『アマゾン文明の研究』現代書館、2010年、230頁)があった。ホモス文明のユニークさは、大氾濫原のために「それが都市センターを中心とした一点集中型の文明ではない」ということであった(実松克義『アマゾン文明の研究』現代書館、2010年、150−152頁)。

 アマゾンは「多くの栽培植物の原産地」であり、「最大の栽培植物といえるマニオク(キャッサバ)を中心とする根菜類、カボチャ類、豆類、グアバ、パイナップル等の果実類、またタバコ、綿等はアマゾンが起源」である(実松克義『アマゾン文明の研究』現代書館、2010年、266頁)。

 トウモロコシ、ジャガイモについては議論があるが、「アマゾンにはトウモロコシの原種が存在」し、また「ジャガイモはもともとアマゾンに自生する原種をアンデス高地人が移植、品種改良をした可能性がある」(実松克義『アマゾン文明の研究』現代書館、2010年、266頁)のである。しかし、アマゾンでは、トウモロコシ、ジャガイモはまだ品種改良の進展以前のレベルであり、ユーラシア大陸のように、有力穀物を持たなかったのである。だから、「今から2000−2500年ほど前に起きたテラプレタ土壌改良により、全面的な農業革命が起きた可能性」はあったとしても、有力穀物にまだ恵まれていなかったのであり、大文明となる経済基盤をもたなかったのである。
  
                                      第七項 人口規模 

 以上、アマゾンを除くアメリカ新大陸各地で、とうもろこしを主軸としジャガイモ農耕、マニオク農耕などを副軸として展開した栽培農業で人口が増加した。しかし、麦と米で先行したユーラシア大陸の人口規模(千万人以上)に比べて、新大陸の農業生産力と人口規模はかなり低いものだった。

 紀元前400年(5000人)、サポテカ文明(メキシコ南部高地のオアハカ盆地で山上要塞のメソアメリカ最古都市モンテ・アルバン中心の文明)のモンテ・アルバンで人口が増加し、紀元前200年には1万7000人(当時の盆地人口は5万1千人)に増加した(青山和夫『古代メソアメリカ文明』講談社、2007年130頁)。ここに、「農民の家族レベルを超えた、政治的・経済的な組織が必要」になり、「この盆地における土地所有の集中ぶるから、階層の分解が進み、支配階級が現れ」、紀元前200年ー西暦100年に「国家の形態」を取り始め、西暦100−600年には人口1.5万人から3万人となって、最盛期を迎える(ブライアン・ハムネット、土井亨訳『メキシコの歴史』創土社、2008年、40頁[Hamnett,Brian R,A concise history of Mexico, Cambridge University Press,1986])。

 メソアメリカ最大の都市テオティワカン(20平方km)には、先古典期後期(前500−前150年)には「小村落が点在するだけの場所」(井上幸孝編『メソアメリカを知るための58章』明石書店、2014年、98頁)であったが、先古典期終末期のパトラチケ期(前150−0年)には、「複数の集落が発生し、2万ー4万人が住み始め」た。ツァクアリ期(0年ー150年)には、公共建造物が登場し宗教イデオロギーが人々をひきつけ、経済活動が活発化して、人口6−8万の都市が誕生し、ショラルパン期(350−550年)には、都市面積と人口は10−15万人と最大となる(井上幸孝編『メソアメリカを知るための58章』明石書店、2014年、100−101頁)。経済活動の活発化とは、「南はグアテマラから北はサカテカスやドゥランゴまで、数多くの地域から物資が集ま」ったということである(リチャード・F・タウンゼント、武井摩利訳『アステカ文明』創元社、2004年、59頁[Richard.F.Townsend,The Aztecs,Thames and Hudson Ltd.London,2000])。西暦500年頃には、テオティワカンは「メソアメリカの首都、そして大本山」となり、最盛期の人口20万人は2千の「集合住宅状の建造物」に住んでいた(ブライアン・ハムネット、土井亨訳『メキシコの歴史』創土社、2008年、49頁[Hamnett,Brian R,A concise history of Mexico, Cambridge University Press,1986])。なお、最近の発掘状況については、杉山三郎「ティティワカン『月のピラミッド』発掘記」その1、2、3(愛知県立大学デジタル論文)を参照されたい。

 テオティワカンが人口15−20万規模を擁した理由は、「集約的な農耕」を裏付ける「大規模な灌漑施設の痕跡」はなく、「不明な点が多い」が、「中心部に三大ピラミッド(太陽のピラミッド、月のピラミッド、羽毛の蛇神殿)の雛形」があり、宗教的求心力があったからという説もある(井上幸孝編『メソアメリカを知るための58章』明石書店、2014年、65頁)。一方、ブライアンは、彼らを「メキシコ盆地の農業が養った」としている(前掲書、49頁)。

 後者の視点が基本的に重要であろう。もし農業生産が大きく、その富を掌握する王権が強ければ、ピラミッドなどの巨大建築物はエジプトのように王権の再生装置に位置づけられる。だが、メソアメリカのように農業生産力が弱いと、まだ強大な王権が登場せず、神官や複数有力者の合議制で運営され、宗教的性格が濃厚になり、巨大建築物は王権再生装置というより、その周辺地域民の生活を宗教的秩序に関連付けるものとなったであろう(例えば、とうもろこし生産では、河川がなく、天水に依存する状況では、巨大建築物が雨季・乾期を示したり、宇宙に農民の再生装置を位置づけたりするものであったろう)。あくまで、自然、生態が文明の質を規定するということだ。

 マヤ文明には、「統一王国がなかった」が、ティカル、カラクムル、コバンなどマヤ大都市は「数万人の大人口を擁し」た(井上幸孝編『メソアメリカを知るための58章』明石書店、2014年、89−90頁)。古典期マヤ都市の人口規模は、総人口が5千人程度の小都市から5万人を超える大都市まで多様であ」(青山和夫『古代マヤ 石器の都市文明』京大学術出版会、平成17年、70頁、104頁)り、これら古代マヤ都市は、「多くの非農業活動と相互依存的な経済、複雑な政治組織を有した大きな集落」(青山和夫『古代マヤ 石器の都市文明』京大学術出版会、平成17年、70頁110頁)であった。

 後7−10世紀(古典期後期)には、ティカル=「マヤの都」の「130平方キロにわたる住居地の中心として、高さ65メートルの第四神殿をふくむ3000の大建築物、5万人に近い人口を擁し」た(青木晴夫『マヤ文明の謎』講談社、1984年、16頁)。カラクムルの70平方キロに5万人、ツィビルチャルトゥンの19平方キロに4万2千人、コバーの63平方キロに4万3千ー6万3千人、カラコル周辺の177平方キロに11万5千ー15万人の人口がいたと推定されている(青山和夫『古代マヤ 石器の都市文明』京大学術出版会、平成17年、112頁)。このように、古典期マヤ都市は、「メキシコ中央高地の古典期最大の都市テオティワカン(「古典期メソアメリカ唯一無二の国際都市」、後200−550年に、23.5平方キロに12万5千人から20万人の大人口が密集」)や古代メソポタミアのような人口集中型の都市とは大きな相違点も有」(同上書122頁)していた。しかし、一時はマヤ低地だけでも500万の人口があったというが(青木晴夫『マヤ文明の謎』講談社、1984年、215頁)、これは過大であり、メキシコ全体の人口であろう。ろう。

 実際、1492年のインディオ推定人口は、メキシコ以北1,000,880人、メキシコ4,500,000人(アメリカ古代文明の中心地域)、西インド諸島225,000人、中央アメリカ736,000人、アンデス地帯6,131,000人(アメリカ古代文明の中心地域)、その他南アメリカ 2,898,000人で、計15,490,880人(泉靖一『インカ帝国』岩波新書、昭和49年、9頁)である。ユーラシアの人口規模に比べて、1000万人に到達した時期が数千年遅れているのである。

                            第八項 ユーラシア文明とメソアメリカ文明 

 アメリカ新大陸研究者は、文明定義に関して、「効果的な食糧生産に支えられて複雑に専門分化した社会とそれが生み出す高度な技術や壮大な土木事業の総体という点は、大半の定義に共通」し、「徐々に発達する食糧生産が余剰を生み、やがて分業から専門職への進展があり、社会の統合のために階級制度や国家や王が出現し、壮大な記念碑的な公共建造物を造るに至るという道筋が当然のように受け入れられてきた」(実松克義『アマゾン文明の研究』現代書館、2010年、78頁)ことに疑問を呈する。彼らは、「近年の文明形成論では、従来の栽培植物の種類やどんな気候風土でどんな動植物が採取できたかなどといった生態環境を偏重し、富の蓄積など経済面に依拠する単純な議論からの脱却を図ろうとする動きが目立」ち、「代りに、生産、流通、消費といった場面におけるコントロールや、リーダーの存在理由、それを支える信仰や宗教など、いわゆる広義のイデオロギーのコントロールの様相に注目が集まっている」(大貫良夫ら編『古代アンデス 神殿から始まる文明』朝日新聞出版、2010年、165頁)と、自らの存在根拠を強調する。「食料の加工や貯蔵方法」を多様化した点で、前2000年の「土器生産の開始をもってメソアメリカ文明の誕生」とするが(井上幸孝編『メソアメリカを知るための58章』明石書店、2014年、53頁)、概してその経済が弱く、それに関わる資料が少なく、宗教関係遺跡が多いことから、こういう発言がでてきたと思われる。

  このアメリカ新大陸の文明は、周知の通り、メソアメリカ文明(オルメカ文明、マヤ文明、テオテイワカン文明、トルテカ文明、アステカ文明)、アンデス文明(カラル文明、チャビン・デ・ワンタール文明、テイワナク文明、インカ文明)とアマゾン文明(実松克義『アマゾン文明の研究』現代書館、2010年)からなる。これらのうちで、アステカ文明、インカ文明、マヤ文明は「アメリカの三大文明」(青木晴夫『マヤ文明の謎』講談社、1984年、196頁)ともいわれる。

 青山和夫氏は、世界四大文明(「世界の考古学・歴史学研究が進展した結果、初期の文明を『四大河文明』に限定する見方は否定的」)ではなく、世界六大文明(メソポタミア、エジプト、インダス、黄河・長江文明にメソアメリカ文明、アンデス諸文明を加える)を提唱する(青山和夫『古代メソアメリカ文明』講談社、2007年、12−4頁)。そして、氏は、アメリカ新大陸文明と四大文明との共通性として、富(「大きな人口」、「貧富・地位の差異」、「農業を基盤とした生業」)と権力(「神聖王」、「戦争」、「政略結婚」、文字(?)、「都市」、「初期国家」、「洗練された美術様式」、「神殿ピラミッドなどの巨大な記念碑的建造物」)などをあげる。

 一方、青山和夫氏は、アメリカ新大陸文明が四大文明に対して持つ相違として、@生態環境の相違(「乾燥地域の大河流域とは異なる、多様な自然環境の文明」、「非大河灌漑文明(中小河川、湖沼、湧き水などを利用した灌漑農業、段々畑、家庭菜園、焼畑農業)」、「旧大陸との交流なしに発展した、モンゴロイド独自の文明」)、無青銅器・鉄器(「もっとも洗練された『石器の都市文明』」、「『新石器革命』はなかったが、農耕定住村落の確立後、数百年で発達した文明」)、独自交流(「大型家畜や荷車を必要としなかった、人力エネルギーの文明」、「政治的に統一されなかったが、遠距離交換網を通して文化要素を共有した多用な文明」)であった事(前掲『古代メソアメリカ文明』21頁)があった事、A「石を積み上げて高い建造物を建造すれば、ピラミッド状の形にならざるをえな」いが、メソアメリカのピラミッドは、「ピラミッド状の基壇の上に神殿を建てた宗教建築であり、その一部が王陵としても機能」した事(同上書21頁)、B「石器が主要利器であったことは、メソアメリカ文明が、旧大陸の「四大文明」よりも『遅れていた』ことを必ずしも意味しない」(同上書22頁)し、「鉄器が用いられなかったことは、古代メソアメリカ文明が、旧大陸の『四大文明』よりも『遅れていた』ことを意味しない」事(同上書25頁)、C「乾燥あるいは半乾燥地域の『四大文明』だけみていると、『高温多湿の熱帯雨林では文明は育たない』かのような錯覚に陥ってしまう」が、「古代メソアメリカ文明は、熱帯雨林や熱帯サバンナを含む、多様な自然環境で発達したのであり、この点においても『四大文明』史観を覆す」事(同上書33頁)、D四大文明は「乾燥・半乾燥地域の大河流域の肥沃な平地において発達」したが、「メソアメリカの文明の首都モンテ・アルバンは、農業には不適な山上都市であ」り、「大河川は、メソアメリカの文明の必須条件ではなかった」事(同上書34頁)、E「古代メソアメリカは、政治的に統一されなかったが、これは、統一朝=文明という見方への反証」であり、「地方色豊かな諸文明が共存し、遠距離交換網を通してさまざまな文化要素を共有したために、一つの文明複合としてくくることができる」事(同上書39頁)などを指摘する。しかし、これらは、アメリカ大陸での農業生産力が弱かったということに基因しているのであり、氏においてはこの簡単な事実が無視されている。

 Dに関連して、青木春夫氏は、河川文明である「旧大陸の四大古代文明」との関連で、マヤ文明には河川がないという意見があるが、「古代文明の発生には河川と農業が必要だという」のは「古い理論」であり、マヤは、「集中的な土地の利用で食料を確保」(青木晴夫『マヤ文明の謎』講談社、1984年、207頁)し、「文明の発生に必要なのは安定した食料源」(青木晴夫『マヤ文明の謎』講談社、1984年、206頁)が存在した。メソアメリカ文明の独自性を強調するあまり、河川文明は「古い理論」だとするのである。

 また、青山氏は、マヤ文明の独自性として、「先古典期中期(前1000−前400年)から周辺地域との交流を通して、外来の文化要素を取捨選択して取り入れながら、独自かつ徐々に形成されていった第二次文明ということができる」(青山和夫『古代マヤ 石器の都市文明』京大学術出版会、平成17年、291頁)ともしている。要するに、メソアメリカ文明は、麦・米といった強力な食料をもてなかった経済的弱さから「徐々に形成」されたのであり、ユーラシア文明より「遅れた」文明だったことは隠しようがないのである。

 しかし、麦や米でも栽培されだしてから高生産性を発揮して大人口を扶養するようになるまで6−7千年もかかっているのであり、とうもろこしはそれに2−3千年遅れただけともいえる。皮肉なことに、現在、そのとうもろこしは、麦や米を凌駕する高い生産性を実現しているのである。麦文明、米文明と、玉蜀黍文明とは、2ー3千年の差でしかないということである。それを、四大文明とか、あるいはメソポタミア文明がヨーロッパ文明の源流であるなどとして、ユーラシア文明、メソポタミア文明を優越視するのは間違いだということである。

 最後にこのとうもろこしの高生産性点を見ておくことにしよう。

                                     第九項 現在の高生産性  

 現在、トウモロコシは、概して、@「個々の品種の適性範囲は広くはないが、種類や品種が多いので、トウモロコシ全体は世界の農耕地全体を覆うほどの幅広い地域性・栽培特性を持っていること」、A「穀実としての粒の澱粉構成の種類が多いので、他の作物にみられない利用の多様性を持っていること」(戸沢英男「トウモロコシの作物的特徴、種類、栽培」[貝沼圭二・中久喜輝夫・大坪研一『トウモロコシの科学』朝倉書店、2009年、13頁])を特徴とするようになっている。

 しかも、現在、トウモロコシは「コムギ、コメに比較しても生産性の高い作物であ」り、トウモロコシの単位収量は、1.9t/ha(1910−39年)、2.8t/ha(1940−50年[「ハイブリッド種子の導入により2.8t/haまで上昇」])、4.4t/ha(1950−63年[「この時期の収量上昇の主要因は施肥、除草剤、殺虫剤、機械化、優れたハイブリッド種子などの技術的な進歩と好天であった])  9.5t/ha(2007年[「種々の技術開発やダイズとの輪作が導入され、さらに遺伝子組換え(GM)種子が加わり、現在の9.5t/haのレベルに達した」])と増加し、顕著に生産性を高めている。これは、とうもろこしの集約農法が飛躍的に進んだことによる。

 つまり、20世紀半ば、「1エーカーあたり8000株だった植え付けが現在は3万株」と、植え付け密度は3.7倍となった(結城正美「トウモロコシと人間」[笹田直人編著『都市のアメリカ文化学』ミネルヴァ書房、2011年、249頁])。これは、「化学肥料や種子の開発によって密集栽培に耐えるトウモロコシ」(同上書245頁)を実現し、「一エーカーあたりの収量を増やすために、密集栽培に耐えるトウモロコシが開発」されたことによる(結城正美「トウモロコシと人間」[笹田直人編著同上書244頁])。こうして、トウモロコシが「工業化」され、「トウモロコシ畑が・・都市的様相を強め」、「食用」ではなく、「加工用ないし家畜の飼料用」(結城正美「トウモロコシと人間」[笹田直人編著同上書248頁])のために生産されるようになったのである。

 この結果、2007年の単位収量9.5t/haでは、とうもろこしは、コムギの単位収量(2.8t/ha[世界平均]、6.5−7.3t/ha[仏、独、英])、コメの単位収量(4.1t/ha[世界平均]、6.5t/ha[中国、日本、韓国])を上回って、穀物中で最高の生産力をあげるほどになったのである。既に15、6世紀頃、トウモロコシは、1エーカー当たり収量はコムギの収量の二倍であり、「トウモロコシはほかの穀物と比べて非常に収穫量が多」(山本紀夫「作物と家畜が変えた歴史」318頁[川田順造・大貫良夫編『生態の地域史』山川出版社、2000年])くなっていたが、現在、とうもろこしの生産性は小麦の3倍となっている。これは、これまで米国では「新しい栽培技術として不耕起栽培などが採用され、ダイズ、牧草などとの輪作を続けることで地力を保ち、表土の流出に歯止めをかけ」てきたが、新たに「米国における再生可能エネルギーとしてのトウモロコシの需要の急激な増加はこれまで保たれてきた作物ローテーションを大きく変化させはじめている」(戸沢英男「トウモロコシの作物的特徴、種類、栽培」[貝沼圭二・中久喜輝夫・大坪研一『トウモロコシの科学』朝倉書店、2009年、186ー190頁])ことによるのである。




                                                     
2014年10月1日 成稿



   

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